不肖、芳春!
 日々これよき日を念じ生きてゆこうと思う。  その軌跡を記事にしておこうと思う。

愛犬余談

 居間の棚に飾り20余年。それは老輩壮年時代飼っていた愛犬との写真。
 老年のいま眺めるとしみじみ「あの頃はよかったなぁ」という感慨が湧いてくる。

 阪神淡路大地震発生前老死したのだからそれから生存期間16年遡れば、現在からいえば遠い遠い昔のことである。
 その頃神戸・新開地のお好み焼屋で一匹の仔犬を貰い受け育てたが、雌の中型犬で毛並みや毛色はシェパードもどきだったがどう見ても多種血統交じる四国犬系の混血で、丸く大きな瞳が可愛い雑種犬だった。
 そんな犬だったが縁は不思議というか飼うほどに情うつり人・犬というより家族同様の交わり、16年間も長生きし、晩年はわが家にとって欠くべからざる存在だった。
 しかし寄る年波には克てず犬の生存期間でいえば十分過ぎる天寿だったが、いま思うには、老いた犬の憐れな姿は人間同様、「われもいつかそんな境涯に・・」と思われるほどのみじめさで、声もなく息をひきとったのである。
 愛情移れば人も犬も同然、その死後しばらくは失意感ですいぶん落ち込んだのを思い出す。
 そんな次第で古い昔のことながら思い出はいまも消えることはなく、飾棚の写真みると感慨深い。

 先日読んだ安岡章太郎の随筆『死との対面』(光文社刊)中に「僕の散歩は、犬を飼って犬のために散歩したことから始まった。・・」という一節があった。そこには、
「僕の友人に一人、老犬を愛し、その老犬と暮らすことを生き甲斐にしている男がいる。その男が言うには、老犬を養うことは孤独を学ぶことになるそうだ。なぜかと言うに・・」と続き、
「犬の一生は人間の寿命の三分の一か四分の一しかなく、犬を飼えば犬の死に立ち会うことになり、人間の死に様がどこか小賢しさを残したまま死ぬのに対して、犬は本当に生きものの哀れというものをもったまま死ぬ、人間にない美が犬にはある」と記し、
「ある日その男から手紙が来て「この頃、わが家の老犬は白内障が進んで両眼とも殆ど視力を失ってしまいました。それでも散歩に出たがりますし、どっちみち一日中、家の中に置いておくわけにはいきません。しかし、この犬のために盲導犬をつけるわけにもいきません。そこで小生は、思い切って自分自身、“盲導人”になる決心をいたし、朝、夕、犬の先導となって歩いている次第です。・・・・」と述べている。
 その随筆を読んで、「全くわが体験のひき写しではないか」と驚いた。
 愛犬の晩年もそれそっくりで、視力失い声も出なくなっていたからである。そして死んでゆく姿を見守り、犬を飼った者が誰もがいう「犬の死には二度と立ちあいたくない」という言葉が身にしみた。
 老い衰えた犬の哀れな姿、その死に様を見守る辛さは人間に相対すると同様で、身切られる思いでそんな事情ゆえ、以後再び犬を飼うことはない。
 そして老いたいま思う。「皆が元気だったあの頃がいかに幸せだったか」ということ。

・・・天空に瞬く星や犬を抱き・・・

category 俳句  /  2017年 11月 01日 14:15  | Comments ( 0 ) | Trackback ( 0 )

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