不肖、芳春!
 日々これよき日を念じ生きてゆこうと思う。  その軌跡を記事にしておこうと思う。

グラマンの夏

 年々夏が暑くなってくるように感じるがそれは老年故の体調なのか、それでも太平洋戦争酣の頃も随分暑かった。
 思えば、長い年月よくぞ今日まで生きてこられたものよと思うが、この齢になっても鮮やかに蘇るのは戦争末期の一事。
 当時老輩は14歳、昭和20年7月末のこと、戦争終る1月前だった。
 その頃田舎の子どもの遊びといえば海や川で一日中水遊びすること、丸裸で夢中になり陽光で背中が真っ赤になり、夜寝床で仰向きになると痛くて眠れなかったことを思い出す。
 戦争末期の頃は日本国中いずこもアメリカ軍に制空権をにぎられ空を飛んでいるのは敵機ばかり、サイパン島から飛来する爆撃機B29や本土近海を遊弋するアメリカ空母を発進した艦載機グラマンの大群だった。
 そんな厳しい戦況下だったが土佐の田舎では空襲の合間海浜で泳ぎを楽しむ子どもが多く、私もそのひとりで当時旧制中学2年生だったが、予想されるアメリカ軍本土上陸に備え四国の山奥に集団疎開する前、常日頃親しんだ海や川との別れが名残惜しく、空襲警報のサイレンが鳴らぬ合間、遊び仲間の幹ちゃんと連れだって海浜に出かけ泳ぎを楽しんでいた。
 すると沖合遠く点々と黒い機影が空を覆うように現れたと思う間もなく雀蜂の群かくやの如く無数の艦載機が轟音ともない頭上に響いた。

 咄嗟に艦載機グラマン来襲と覚えたのだが体がふるえ動けない。なんとか海辺の小さな松の木陰に身を寄せ隠れたのだが真上を通過する百機超す艦載機をかいま見、体の震えが止まらなかった。
 なにせ上空わずか数百米、バリバリと轟音を立て通り過ぎる機体の星のマークが鮮やかに目に入ったが、その恐怖感は筆舌につくし難く、せめても機銃掃射されずにすんだのは幸いだった。その数分間がどれだけ長く感じられたことか。いまも空覆う黒い機影におののいたことがトラウマとなって時に夢に出ることがある。
 記録によると、当時土佐湾を遊弋する空母から発進したグラマン戦闘機は百機以上で、それらの編隊は四国山脈を越え松山海軍航空隊の基地や瀬戸内海越え広島の海軍施設を攻撃している。

 あのとき一緒に恐怖に身震わせた遊び仲間の幹ちゃんはいまは世を去り再び会うこともないが、昨夏久し振りその浜辺に立ち海を眺めた。
 むかし遊んだ砂浜はすっかりなくなり、避難した松の木も消え、往時の面影はすっかり失せてしまっていた。
 怖かった戦争終って70余年、往時の場所で眺める故郷は平和そのもの。
 海の青さと波の音だけは昔変らず、それがとても懐かしかった。

 ・・・グラマンも友も彼方にかの夏や・・・

category 俳句  /  2017年 09月 28日 10:41  | Comments ( 0 ) | Trackback ( 0 )

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