健康長壽のみなもとは…
園蔬と戯れ和食の原点とも言える蔬食を楽しむありふれた田舎の生活

修学旅行と紫雲丸の沈没事故

中学3年の修学旅行を迎える昭和31年5月。
嬉しさと楽しさにわくわくと胸をときめかせていた丁度そのさなかに、宇高連絡航路の連絡船「紫雲丸」の沈没事故が発生した。

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宇高連絡航路とは、国鉄の宇野駅・高松駅間の旅客と列車をまるごと輸送する連絡航路であった。

一等車の乗客も三等車の乗客も座席に座ったままで宇野駅から高松駅まで海上輸送されて本州からと四国へ運ばれる国鉄の鉄道連絡航路であった。

当時、九州へは関門トンネルが開通していたので、本州から北海道へも同様の青函連絡があった。

列車を客を乗せたまままるごと輸送する海上の鉄道路線であったのだ。

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この「紫雲丸の沈没事故」を受けて、四国・讃岐方面を予定していた修学旅行の行き先の変更の是非についての父兄会がわれわれ生徒を交えて開催されたことは当然のことであった。

当時、当事者の生徒の一人であった私は「事故直後の今なら、まだ関係者は緊張と責任感にあふれているので、むしろ一番安全な時期であろうから、予定通り四国・讃岐方面でよいのではなかろうか。」という意見を述べたのであった。

また、同じような意見が多数を占めたので当初の計画のままで修学旅行が決行され、事故現場の海上では、花束をささげて多くの犠牲者のご冥福を祈った。

そして、海での船の事故と空での飛行機の事故の恐ろしさを60年を経過した今でも忘れられないのである。

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このたびの韓国の修学旅行生をはじめ乗客の方々が一人でも多く救出されることを祈るとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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参考:紫雲丸の沈没事故(ウイキペデイアより転載)


1955年(昭和30年)5月11日:濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人死亡する事故(紫雲丸事故(2度目の沈没事故)・国鉄戦後五大事故の一つ)が発生した。この事故を契機として、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。事故を受けた組織見直しで国鉄四国支社(のち四国総局)に宇高船舶管理部を設置。

この事故は修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受けた。以降数年間(中には瀬戸大橋開通前年まで)、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどである。この惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県) - 坂出(香川県)ルート実現の大きな原動力となった。


category 日々つれずれなるままに  /  2014年 04月 19日 09:41  | Comments ( 0 ) | Trackback ( 0 )

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