健康長壽のみなもとは…
園蔬と戯れ和食の原点とも言える蔬食を楽しむありふれた田舎の生活

1.17:禁煙から20年

まだふとんの中で目は覚めていた。

かなり大きな揺れがあって、地震を感じた時には必ず時計をみる習慣があり、その時も、時計をみた。

5時45分ごろであった。

大阪の会社に通っている次女が阪急塚本駅近くのマンションの一階に短大卒業後そのまま住んでいる。

本能的にすかさず電話を入れると、何でもないような声で、「すごい揺れだったね。大丈夫だよ。見渡せる範囲では、なんともないよ。」ということであった。

安心して、念のためにテレビをつけてみると、とんでもない臨時ニュースをやっていた。

あわてて、次女に再び電話してみたが、もう、その時には、そして、そのあと何度かけても、つながらなくなっていた。

最初にかけて、2,3分後であったのに・・・

それから数日後、会社の寮の一階に寝ていたご近所の御子息が、亡くなられた話が耳に入ってきた。

二階に寝ていた人たちは助かったとのことであった。

宝塚には、妻の弟や従姉たちが住んでいるのが、電話連絡がとれないので、安否確認のために翌週に、次女のところをはじめ、行ってみる予定を立てて、すぐさま、ポリタンクとカセットコンロとボンベを買い集めて、ポリタンクには水道の水を満タンにして、準備しておいた。

案の定、一週間後には、近所のホームセンターのどこにも、これらの品物が品切れになっていたそうである。

準備を終えて、ほっと一息ついて、その一週間後には、親戚の法要の案内を受けていたことを思い出した。

その法要の最中に、ようやく、先ほどののご近所の亡くなられたご子息の遺体が帰宅されるということで、法要を抜けて出迎えさせてもらった。

そして、さらに一週間後の土曜日にようやく、次女や親せきを訪ねたのだった。

幸いなことに誰も、自宅も身体も被害がなかった。

中国道の途中から一般道へ降りて車を走らせていると、がれきを積んだダンプとひっきりなしにすれ違ったものであった。

今、思えば、復興への素早い動きであったとも思える。

宝塚市内に入って、親戚への途中では、道路ひとつ隔てただけで、無傷の家と倒壊した家とが隣り合っている光景は、その様(さま)もさることながら、倒壊した家に住んでいる人々の心中を察すると、痛々しさを覚えずにはいられなかった。


そのころ、次女は、車の通行許可証をもらって、被害を受けた会社の同僚などの人たちへ生活用品などを運ぶ救援活動に飛び回っていたそうである。


この震災の年には、もうひとつの大きなな思い出がある。

元旦の朝、ギックリ腰が再発して、病院は休みなので、正月そうそうから、家の中で静かに、トイレなどは這いながら、過ごしていたのであった。
20年以上にわたっての一日数箱のヘビースモーカーであったが、タバコどころではなかったのである。

十日ほどで、ようやくソロソロと普通の生活ができるようになっても、タバコを口にする気にならなかった。

そこえ、震災が起こった、阪神淡路大震災であった。

お酒のはいる親戚の法要には、胸ポケットにそっと、一箱忍ばせておいたタバコを、一本口にくわえたのであったが、そろそろご近所のご子息のご遺体の出迎えに行こうと声がかかったので、火をつけずに、そにまま箱のなかに戻したのであった。


それ以後、たばこを口にすることは、20年来ないのである。

どうしてなのかは、今でも、理由はわからないままである。

タバコを止めるのに、理由は、要らないのかも…とも、思えるのである。

どんなにしても、止められなかったタバコが、元旦のギックリ腰と阪神淡路大震災のおかげで、ピタリと止められた、とも、言えそうである。


最初のうちは、朝夕の歯磨きのたびに、ニコチンの嫌な味わいが口中を騒がせたが、歯医者さんで歯垢を取ってもらったりしているうちに、匂いも抜け、ニコチンで汚れていた歯もすっかりきれいになっている。

おかげで、今でも親知らずを加えて、自分の歯は34本である。

人間の歯は、36本が普通なのかと、長い間思い込んでいて、美人の歯医者さんに笑われたものだった。





category 日々つれずれなるままに  /  2015年 01月 14日 11:40  | Comments ( 0 ) | Trackback ( 0 )

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