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湊川神社へ!

1月4日(金)
湊川神社へ祈祷に行ってまいりました!

午前10時
霧のような小雨がパラつく中、湊川神社へ代表取締役社長 三須 久 をはじめグループ子会社を含める約30名が参加し、関西ブロードバンドグループの一年間の平安と繁栄とを祈願致しました。

祈祷後は小雨も上がり、写真撮影やおみくじを引くなどして過ごし、会社に戻ってからは通常通りの業務に努めました。

湊川神社は由緒ある神社で、毎年初詣には市外からもたくさんの方々が訪れます。この日も多くの方々がみえられており、出店なども賑わっていました。

ここで、湊川神社の歴史について調べてみました。

由 緒
 大楠公は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示されました。しかし、延元元年(1336年)5月25日、この湊川の地で足利軍と戦い、殉節されました。

 以来、この誠忠の大楠公を慕い、地元の人々は大楠公の塚(お墓)を大切にしてきました。お墓は豊臣秀吉検地の際、免租地とされ、江戸時代には尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪の石塔も建てられました。
 そして元禄5年(1692年)水戸光圀公(義公)が大楠公のご墓所(境内東南隅にある「嗚呼忠臣楠子之墓」がそれです)を建立されました。このご墓所の建立後は、さらに多くの人々が墓前にお参りし、大楠公のご遺徳をたたえました。
 明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達がお墓に詣でつつ国事に奔走しました。

 これにより大楠公景仰の気運がいよいよ高まると共に、幕末から維新にかけて大楠公の御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、当時のお金で千両という大金を下されました。こうして明治2年(1869年)、ご墓所・ご殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建されたのです。
 延元の戦いで奮戦し、誠忠と正義とを以て生涯を貫かれた大楠公に対する景仰は積年変わることなく、現在も全国からたくさんの参拝者を迎える、日本有数の名社とされています。


御盛徳
 大楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とまで言われ仰がれた人でした。
 大楠公の誠忠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫にまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はないと言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたといわれます。

大楠公のご生涯
楠木正成公(大楠公)は永仁2年(1294年)、河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)でお生まれになりました。この地の豪族の出身だと伝えられています。
 元弘元年(1331年)大楠公38歳の折、鎌倉幕府を倒して天皇自らが政治をとり、よりよい国をおつくりになろうとされた後醍醐天皇のお召しにより、天皇の許に参じました。大楠公はじめ鎌倉幕府打倒に立ち上がる武士も少なくありませんでしたが、幕府軍の力はなお侮りがたく、後醍醐天皇は捕らえられて、隠岐島(島根県)に流されてしまいます(隠岐島は承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇が流された地でもあります)。

 しかし、後醍醐天皇が流された後もそれに臆せず、なお戦い続けた武将がいました。それが大楠公でした。河内国の千早城では、さんざん敵を悩ます戦を続けました。
 大楠公の目覚ましい戦いぶりは、諸国の武士を驚かせました。ふがいない幕府軍を見て、幕府の実力者であった北条氏の打倒に立ち上がった武士が各地に相次ぎました。鎌倉幕府の御家人であった足利高氏や新田義貞も幕府打倒に参加します。このような大勢力に攻められ、建久3年(1192年)から続いた鎌倉幕府は滅亡します。

 京都に帰られた後醍醐天皇は、幕府の政治を改め、理想の政治を実現しようとされました。これを「建武の中興」といいます。しかしこの体制は、公家中心の政治であったため、武士の中には後醍醐天皇に不満を持つものも出てきました。鎌倉幕府打倒に力を尽くした足利尊氏もそのひとりで、その尊氏の反乱によって、各地で戦闘が始まりました。

 尊氏は、鎌倉幕府の北条氏の残党、北条時行が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め込んだのを機に鎌倉に入り、北条時行を討伐します。この反乱を「中先代の乱」といいます。そして、そのまま鎌倉で武家の政権を復活しようとしました。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じます。天下はふたたび戦乱の世に入り込むことになりました。それから約一年間は足利と新田の戦が続きます。

 延元元年(1336年)、足利軍が京都を占領しますが、わずか半月ほどで大楠公等の朝廷軍に破れ、尊氏等は九州に落ち延びました。
 しかし九州で西国武士を集めた尊氏は、ほどなく大軍を従えて京都に向かいます。その途中で足利軍を防ごうと考えた朝廷方は、新田義貞と大楠公に、兵庫で尊氏の大軍を迎え討つことを命じました。

 同年5月23日、大楠公は、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町)で、御子の正行公(小楠公)に後事を託して別れ、同年5月25日(現在の暦では7月12日)、大楠公は、手兵700で会下山に陣を取りました。主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えましたが、敵の策略のために、大楠公の軍と分断されてしまいました。

 この日、大楠公は足利尊氏の弟、直義の大軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、大軍の前には、さすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。もはやこれまでと覚悟された大楠公は、弟の正季卿らご一族と「七生報国」を誓って殉節され、その偉大な生涯を閉じられました。

 後醍醐天皇のため、またよりよい国づくりのために力を尽くされたご生涯でした。そのような大楠公の忠義を讃えるために、明治天皇のご沙汰により、湊川神社がここに創建されたのです。そして現在もたくさんの人々が大楠公を慕って参拝されております。


http://www.minatogawajinja.or.jp/より引用


境内案内図

交通アクセス

湊川神社お問合せ
■TEL : (078)371−0001
■FAX : (078)371−1920
■所在地 : 兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1


いかがでしょうか?

どのような神様が祭られており、どのような歴史があってこの神社があるのか・・・これを知った上で参ってみるのも、いつもと違った楽しみ方ができるのでではないでしょうか?

category h555.netスタッフ日記  /  2008年 01月 07日 15:30  | Comments ( 0 ) | Trackback ( 0 )

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