ブログを本にするブログ
ブログを本にしよう。 06年12月発刊初の著書『ブログを本にする本』    本の作り方、教えます

日本一のペンキ屋 『22歳、母と出逢う』

旅を始めたトシボーは全国を渡り歩く。

本土に返還される前の沖縄にも行った。
その頃沖縄に入るには、パスポートが必要だった。
高松で出逢った恩師に、東京では知らなかったペンキの知恵を教わった。
その時身に着けた技術を、山陰に持ち込んだ。
塗装業に必須の技術でありながら、
情報の遅い山陰には、トシボーが来るまでその技術がなかった。




そうして津々浦々を渡り歩いた後に、
トシボーは鳥取県に辿り着く。



鳥取県、中国山地から頭一つ出し、
富士の名を頂く伯耆富士、大山(だいせん)。
その山村のペンションに居座ることとなる。

訳などなかった。

住み込みのアルバイト。
三食布団付きの働き口は、流れ者には打って付けだった。
トシボーはペンキを離れて、
気ままな冬山暮らしを楽しんだ。





そこのペンションには、ちょうど同い年の娘が居た。
働き者の彼女は、トシボーのことを快く思えなかった。
むしろ嫌いなくらいで。
働き者のこの娘、サヨちゃんと言う。
サヨちゃんは曲がったことが嫌いで、
少し勝気な娘。

高校の時分に父親を亡くして、
母は看護婦として街に働きに出て居た。
二人の兄はそれぞれ東京と大阪に就職し、
妹は母の意思を継いで看護婦になった。

サヨちゃんは、これと言った夢もなかったが、
手に職を就ける意味で調理師免許を取った。
しかし、サヨちゃんの生家、田舎の中の更に田舎。
ド田舎の田んぼだけの村では、調理師免許を活かす場所がない。

そこで知り合いのつてで、このペンションで働いていた。



職場のペンションをリゾート地くらいに考えていたトシボーは、
ペンキのことでなければ動かない。
働かない。
東京から来た流れ者をサヨちゃんが気に入るはずがなかった。


不真面目が鼻について、腹が立って仕様がない。
どうせここに飽きたら、またどっかに行ってしまうんだろう。
疎ましくさえ感じていた。




そんな時、ペンションに一つの事が持ち上がる。



それは、サヨちゃんに持ち掛けられた縁談だった。

category 日本一のペンキ屋  |  2006年 10月 24日 13:18  |  comments( 0 )  |  Trackback( 0 )

オヤジが泣いた日

いや〜、今日も参った。


感動を頂きました。



オヤジの退院サプライズで
ムービーをアクティブ感動引越しセンターの皆さんに
創って頂いたんです。


我々息子チームも、その作戦に参加させて頂いていたはずなのに、
泣けたッス。





オヤジのムービーは、オヤジの為だけに創られたもので、
その名も『日本一のペンキ屋に贈る物語〜part2〜』

このタイトルは私が私と弟のブログを再編集して創った
今の所、世界でたった2冊の本のタイトルなんです。
そのpart2。








ビデオレターとして、アクティブの皆さんからメッセージを頂きました。

アクティブさん、お客さんなんですよ。
うちのペンキ屋の。

お客さんからメッセージをもらえるなんて。

ありがたいです。




皆さんからオヤジに頂いた温かい言葉の数々。


我々の仕事の成果を随所に散りばめて、
オヤジの好きな歌、ドリカムの『LOVE,LOVE,LOVE』をバックに、
映像を創って頂きました。




今回、オヤジに内緒で、地元の母からオヤジの若い時の写真を
送ってもらってたんです。



我々がガキの頃の写真も見れて、すごく嬉しかった。
24,5のオヤジが幼い私と弟をあやしてくれていた。





ビデオレターには、もちろん、私も大もミツもメッセージを寄せました。
各々の言葉で。


オヤジは感慨深かったろうなあ。
実は今回の上京に当たって、オヤジには少し悲しいことがあったんです。




東京はオヤジの地元、生まれ故郷。
無論、親族も居るんです。
でも、疎遠になってしまって。


この機会に、1つ上の姉にお逢うと思っていたんです。



でも、姉はそれを拒んだんですね。




オヤジの過去の失敗もあったんだけど、
会いたくないと言った類のことを言われて。
そのことをどうしてあげることも出来なかった。

今思うと、やっぱり可哀想だったと思います。

もしもそれが自分だったら、やっぱり悲しいです。



そんなこと、少しも見せないから
私はバカみたいに、気にしてないのかなって思ってました。




ムービーで私と大とミツからのコメント
嬉しかったと思う。
隣にいて顔は見えなかったけど、
静かに鼻を鳴らしてたな。




最後に、母からもメッセージをもらってたんです。
それもオヤジに内緒でね。





「おとうさん、
うちのネコ達と帰りを待っちょーよ。

早く帰って来てね。」






シンプルだけど、素敵な言葉。



ああ、もう素敵な言葉です。



帰りを待つ人の家へ帰れる。

そこがうちなんですね。







もうずっと堪えてました。



私も、隣に居る大も。






ムービーが終わった後、
オヤジは押し黙っている。

少し下を向いてね。






それが口を割ったと思ったら、



「俺、こんなん弱いんだわ。」





「ありがとうございます。」





そう言いながら、号泣して。







オヤジが泣いたことは、
今までに三回しかないです。





1度は母と別れる。


そう言われて、私と弟が引きとめた日。
十二歳の時。
ミツはまだ二歳だった。




もう1度は、オヤジが建ててくれた家が無くなる時。


「俺だってどうして言いか分からんわ!」


叫びながら泣いた時。





そして今日。



オヤジが嬉涙を流したのを、
初めて見た。






ずっと堪えてたのにね。





オヤジが「ありがとうございます」と言って泣いた。


もう無理だった。



私も大も、声を上げて泣いたよ。






ああ、こんな日が来るとはね。


思いも寄らなかったです。







今、1人でこの文章を書いてるけど、
オヤジに逢いたいと思います。
母にも逢いたいと思うし、
大にも、ミツにも逢いたい。



家族に逢いたいと思った日。




今まであんまりなかったな。





アクティブ感動引越しセンターの皆さん、
幸せを頂きました。
あまりあるほど。


ありがとうございます。

category 日本一のペンキ屋  |  2006年 10月 22日 01:23  |  comments( 0 )  |  Trackback( 0 )

オヤジ退院、『アクティブ感動引越しセンター、世界一!!!』

『日本一のペンキ屋』
続けて書きます。


この1週間、慌しくて手が付けられませんでした。
申し訳ないです。




おかげ様で、オヤジは退院しました。

御心配と御迷惑をお掛けしました。

感謝致します。

ありがとうございます。



今日は、アクティブ感動引越しセンターの皆さんに、
サプライズパーティーを開いて頂きました。



本当にサプライズの連続で、
筆舌に堪えがたい想いがします。

皆さん、ありがとうございました。



我々家族は、出来ないながら一生懸命お仕事させて頂きました。

オヤジは血を吐いて仕事をしましたが、
私をはじめ子供達は、出来る最善を尽くしたか。

いや、私1人に関して言えば、
オヤジが血の滲むような努力をしながらも
出来た全てをやったかどうか、自問する気持ちが正直否めません。

それでも、出来ることをやったと思いたいのが本意です。





我々家族を仕事を労って、あまりあるほどのものを、
アクティブ感動引越しセンターの皆さんに頂きました。




今日の席でもお話させて頂きました。




この度の仕事を通じて、私はオヤジが20年間我々兄弟を育てる為に、
仕事をして来た『塗装』『ペンキ塗り』の仕事の素晴らしさを
お客様である皆さんから教えて頂きました。




もう、ちょっと、
今、自分がやっていることを考えずには居られないです。




御多忙の中、我々家族を労うために
駆け付けて頂いた福島正伸先生、香取貴信さん、
鶴岡秀子さん、そして、この度最後まで信じて頂いた
アクティブ感動引越しセンターの代表取締役であらせられる
猪俣浩行社長。

片時も目を離さずに、信じて頂いた
渡邉輝基営業本部長様。

ありがとうございました。

恐悦です。





我々家族には、この先何が出来るか分かりませんが、
我々の営みを通じて、お伝え出来る何かがあれば、
お返し出来る何かがあれば、幸いに想います。





とにかく、皆さんとお逢い出来たこと
感謝致します。


頂いたご縁を大切に、私自身を務めて行きたいと想います。



メッセージを頂いた

恵藤さん

井之上さん

稲見さん

浜本さん

中山さん

吉田さん

森澤さん

栖原さん

山崎さん

柴田さん

塚本さん

浜田さん

築山さん




皆さん、素敵です。

この小さな心に、余りある感動を
ありがとうございます。




私が今、感じている感動は
紛れもなく皆さんから頂いたものです。



皆さんが毎朝、素晴らしい朝礼で唱和される通り、



「アクティブ最高!!」



「アクティブ最高!!」



「アクティブ最高!!」




「アクティブ世界一!!」



「世界一!!!」





あの健やかなる心の響きが、
私の小さな世界では一番になりました。



どうか、1人でも多くの人が、
素晴らしい皆さんと出逢えますように。




心からお祈りして止みません。





限られた時間を、同じ景色の中で
過ごせたことを、心の宝に致します。



ありがとうございます。

category 日本一のペンキ屋  |  2006年 10月 20日 23:05  |  comments( 0 )  |  Trackback( 0 )

日本一のペンキ屋 『15歳、旅のはじまり』

※この2〜3日は、『ブログを本にする本』は少しお休み。
私と私の家族についての手記をしたためます。


3日間の絶食は少し堪えるようで、
食欲を持て余している感じだった。

それでも朝、電話で
「とにかく寝ちょうけん、漫画も読む気にならん」
と言っていたオヤジが夕方には、
俺が訪ねた時に『あしたのジョー』のどこかのページを開いて、
本を伏せていたのには安心した。

食事は娯楽の少ない病院生活で
ささやかな愉しみなのだが。
致し方ないだろうね。


***


この手記をしたためようと思ったのには
少し訳があるのだ。

1つは自分の書いた『ブログを本にする本』の実践。

本の中で、誰にでも物語があり、
ブログを記録ツール(ログ)として扱い、
再編集して書籍にしようと綴ってる。


自分で今一度、それを実践しようと思った。
すでに1冊、俺と弟だいのブログ記述を集めて、創ってある。


それをオヤジに贈ったら、わざわざ東京まで持って来ていたりして。
実は現場のアクティブ感動引越しセンターの方にも
お貸ししてあって、増刷を頼まれていたりする。


書籍の執筆とは別に、我が家の軌跡を
これからも綴って行きたいと思ったのだ。



そしてもう1つ。

やはりオヤジのことを、多くの人に知ってもらいたい。
病がきっかけとは、自分でもあまり芳しくないけど、
ペンキの鬼、いやペンキの神様。
仕事を心から楽しむ我がオヤジ殿を
世間様にお伝えしたいと思った。

天性の職人、自分の仕事を作品と呼び、
血を吐くまで働く男。

息子ながら心配ではあるけど、
誇らしく思う次第です。
本人には言わないけど、カッコイイと思うしね。
そんなに働いたことないもの。


***


トシボー(オヤジ)は東京生まれ、東京育ち。

未だに籍を移さないから、俺も家族もみんな本籍東京。

流れ者は島根に落ち着き、その息子は東京に居る。
何だかおかしいね。

トシボーは15歳で東京を出た。
嫌になったって言ってたな。

俺は30で島根を出た。
島根を嫌にはなってないけど、
見たいものが島根にはなかった。そんな気がする。


トシボーは5人兄弟の4番目に生まれた。

生まれた家庭はややこしかった。

トシボーの母、つまり俺のばあちゃんは、
正に波乱万丈な人生を送った。
4歳の時に見た遺影の姿しか覚えていない。

まずは、ばあちゃんからだな。


ばあちゃんは山口の旧家の酒屋の出身で、
北海道の佐藤さんと結婚した。
何でそんなことになったのか、俺は良く分からない。
上のおばさんとおじさんは、佐藤さんとの間に生まれる。
佐藤さんが亡くなって満州へ。
そこで真ん中のおばさんが生まれる。
真ん中のおばさんはハーフだ。

日本に帰って来て、トシボーのオヤジ、
つまり俺のじいちゃんと出逢った。
弥太郎さん。
弥太郎さんは厳格な家の出で、弥太郎さんのオヤジ、
俺の曾じいちゃんは怖い人だったらしい。

弥太郎さんはパイロットだった。超エリートだね。

俺には色濃く弥太郎さんの血が残っている。
物書きになって作品を残したかったそうだ。
俺が書き始めた後に、その話を聞いて、
本当に嬉しくなった。

パイロットを辞めた後に、弥太郎さんはペンキ屋へ。


トシボーは勉強をしなかったから、
中学を卒業したら、そのままペンキ屋へ。
15歳からのキャリアは40年にもなるか。
ほぼ半世紀、ペンキを塗っている。



今の世の中は、およそ貧しさとはそうそう縁がない。
選ばなければ、貧しさの中に身を置くことは出来ないと思う。

トシボーの子供の頃は、選んでも貧しかった。


下町の長屋育ち。
家族は子供ばかりで、ばあちゃんは育てるのに精一杯。
弥太郎さんとばあちゃんは籍を入れてなかったから、
トシボーは私生児だった。

それでも元気に育つ。
元気過ぎるほどに育つ。

トシボーには妹もいた。下のおばさん。
2人は仲良しだったけど、弁当は2つ作ってもらえない。
トシボーは弁当を妹に持たせて、
自分は学校で水を飲んでいた。

同級生に「ご飯食べた?」って聞かれると、

「おお、腹いっぱいだ。」

いつもそう応えていた。



同級生が家に来るって言うのが、
何よりも嫌だったと言う。
うちが貧乏だと人に分かるのが嫌だった。
恥ずかしかった。

だから誰も寄せ付けなかった。

好きな子なんか出来たら、もう大変だ。
家には近づけさせられなかった。

トシボーは、貧しさが憎かったに違いない。
田園調布で暴れたとも言ってたなあ。

トシボーはやり場のない怒りや不安を抱えながら、
いたずらやケンカで生き方を模索した。
持て余した体力と精神を、建築現場にぶつけたのは
正解と言うより、むしろ自然だったのだ。


弥太郎さんの傍に居れることも、
トシボーにとっては嬉しいことだったかも知れない。
中学生で賭け事を初めて借金を作るほど手に負えなかったから、
働いてくれるのは、ばあちゃんにとっても在り難いことだった。





時勢と相俟って、トシボーは流れ者になった。
巷のヒッピーよろしく、せせこましい都会と
厄介者扱いする家族から、15歳で離れた。

category 日本一のペンキ屋  |  2006年 10月 15日 23:47  |  comments( 0 )  |  Trackback( 0 )

日本一のペンキ屋 『オヤジ殿』

※この2〜3日は、『ブログを本にする本』は少しお休み。
私と私の家族についての手記をしたためます。



部屋に入ると、オヤジは眠っていた。

寝ているとは思わなかったので、
オヤジの寝姿を見た時、
何だか覗き見をしてしまったみたいで
ちょっと嫌な気持ちになった。


起こさずにいた方がいい。

そう思ったら目を覚ました。


「おお、来たか。」


寝惚けた目が開ききるより前に、
言葉を発する。



「来たよ。大丈夫か?」



横たわったまま照れ笑いをして、



「はは、参ったよ。」


「疲れてんだよ。」


「うん、そうかもな。」


五十を超えてから随分老けたような気がする。
何だか小さくなった。オヤジ。







休憩の間に、弟だいから留守電が入っていた。


『まあ大したことじゃないけど、
オヤジが入院した。手が空いたら連絡くれ。』



入院が大したことないとはね。
大したことあるから入院したんだ。
休憩中にお昼寝しようと思ってたのに。

すぐに電話を折り返すが、繋がらない。
病室なら電話は無理か。

下の弟ミツに掛けてみる。
こっちは繋がった。



「もしもし?」



「おお」



「だいから電話もらった。大丈夫か?」



「とりあえず大丈夫だ。」



「すぐ行くわ。どこ?」



「大久保。慌てんでもいいで。
当座、頼むこともないし。」


慌てずにはいられるか。
ミツの声が落ち着き払っているものだから、
それがかえって不安にさせる。


「なんも出来んのは分かっとるわ。
すぐ行く。」



電車の乗り継ぎを調べないまま、
私は職場を離れた。
新大久保と大久保を間違えて、
余分に電車賃を払ったが、それこそ大したことじゃない。








病室にだいとミツの姿はない。
着替えを取りに宿に戻っていた。



「症状は?」

ベッドに横たわるオヤジを見たのはこれで二度目。
8年前に見た切りか。
何度もこんな景色を見ていないのは幸いだ。




「前やったヤツと一緒だ。胃潰瘍だ。
出血性の。」




「血は?」




「出たよ。
昨日はそんなことなかったのにな。
午前中気分が悪くてな。
10時頃トイレに行ったら、芳しくなくてな。

これはマズイなあと思ったら貧血起こして
横になっちょったんだわ。

そげしたら、今度はムカムカして来て、
トイレに行くの間に合わんと思ってな。
バケツを持って来させたんだ。

そこでな。」



「吐いたと。」


「おお。
周りはみんな心配しちょったけど、
俺は吐いて随分楽になったよ。
救急車の中では鼻歌だったわ。ははは。」



はははって。

オヤジは笑う。
でもその力の無さが、何だか。


参った。


血を吐くまで働くなよ。
これだ、と思ったら遠慮なしなんだから。
自分にも。

何だか労しいなあ。オヤジ。

俺、33か。
オヤジ、55。
まだ若けえよ。

こうやって、ベッドの傍らで見てると、
俺が入院した時に、親として随分心配を掛けた気持ちが分かる。
12歳の時に1ヶ月入院したな、俺。
その時オヤジは34か。



参ったなあ。



まあ、買って来た『あしたのジョー』と
『ゴルゴ13』と『サイバイバル』で
ここ1〜2日は凌いでくれ。

その先は退屈させねえから。

category 日本一のペンキ屋  |  2006年 10月 14日 07:49  |  comments( 0 )  |  Trackback( 0 )